剣士→バンドマン→ホスト→何でも屋 ::: タイの仕事を始めたきっかけ
こんにちは。
ワイワイタイランドに来る方によく聞かれる質問があります。
タイの仕事を始めたきっかけは?
タイ料理は毎日食べているんですか?
奥様はタイ人ですか?
年に何回くらいタイに行くのですか?
これからやりたいことは何ですか?
この中で最も多く聞かれる
「タイの仕事を始めたきっかけ」
について書きます。
大学生になると親元から離れ、剣道からも離れ始めました。パックスニッポニカというテクノのバンド(サポートメンバーに元・電気グルーブの砂原良徳君もいた)やシルバーピストルというロックバンドに在籍して、ブルースやロックにのめり込み、バンド中心の生活をしていました。アルバイトは新宿南口ルミネのロメオというイタリアレストランでやっていました。
ちょうどその頃、世の中にユーロビートが流行し出したのです。ユーロビートはYMO、クラフトワークなど僕が好きなテクノミュージックの延長に感じました。男性客を相手に汗だくで演奏の日々を過ごしていた自分のロックやブルースの音楽スタイルと違和感はあったのですが、女性客にもてたい為と収入を得る為にユーロビートのバンドにギターリストして加入しました。
メンバーはキーボードの男性、キーボードの女性、歌手の女の子やダンサーの女の子がいて多いときは7、8人の大所帯バンドでした。練習はバンドのリーダーであるキーボードの男性のマンションで昼間やっていました。昼間彼のマンションに行くとだいたい彼はキリンビール中ビンを飲んでいて、「よー遠藤君!」と言っていつも明るく迎えてくれました。
彼の部屋には肌が褐色の綺麗なアジア系の女性がいつも数人いました。ある日、その中の一人のヌンさんが「遠藤さん、新宿のこの場所に行くと良い仕事があるよ」というのでギターを持って指定された風林会館に行ったのです。そして現われた女の子に連れて行かれたのがタイのホストクラブでした。僕はそこでタイ人バンドに混じってホストとして働き出したのです。
ハモンドオルガン・ドラム・ベース・ギターの4人編成。
ブッカーT&MG'sの「グリーンオニオン」等やってました。
オルガンの壮太 は2005年タタヤンの日本公演メンバー。
毛皮を着たビーナスが座っていますね。
MG'sをやるなら、ギターはもちろんフェンダーテレキャスター。
でも、以下の理由でホストをクビになり、厨房へ配置転換となりました。
1.話が真面目な話ばかりでつまらない
2.ロックシー(社交ダンスのようなもの)というダンスが上手くできない
3.お酒を沢山飲めない
ある日、ヌンさんが「私の弟はどこ?」って僕の様子を見に来店しました。
そこで、厨房で働く僕の姿を見たんです。
「あなた、そんなところで何してるのーっ!!」
って怒られました。
そのうちタイ人の友達が増えました。日本に住むタイ人がいろんな問題を抱えているのがわかりました。そこで、そういう問題を抱えたタイ人のために役立つために何かできる事がないか、さらにそれで自分も生活できるようになるためにはどうしたら良いかを考え、その店を辞めて歌舞伎町で「何でも屋」を始めたのです。
【何でも屋とは】
入管の面会や差し入れの代理/レンタカーを借りて引越し/蛍光灯交換/アパート探し/観光地案内(ディズニーランド、箱根、日光、横浜)/人探し/身元調査などをしていました。
20年前は新宿バンタイには生バンドがありました。
【宣伝方法】
当時の携帯電話は高くて値段は10万円くらいしたと思います。なので東京テレメッセージのポケットベルを4000円くらいで購入し、その番号が入った手書きのタイ語の名刺サイズの紙をたくさんコピーし、千枚通しで穴を開け、100枚ずつヒモをつけて歌舞伎町のタイレストランやクラブの電話機のところにぶら下げたたのです。
当時は大嫌いだったルクトゥーンを演奏してます。
【その後】
たまたま大久保駅近くの道で、3分間無料国際電話サービスをやっていた国際電話会社IDCの社員さんと話をしたことがきっかけで在日タイ人のためのタイ語新聞「バンコクタイムズ」を発行するためのスポンサーになっていただいたのです。
もう25年くらい経って僕の姿形はずいぶん変わってしまいましたが、
今でもやっている事と気持ちは、
大学生の時に始めた時と同じ。
あの時のままです。
それでは
また!
Keep on Feeling!
えんどうまこと
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